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プロフィール

中嶋 咲枝(なかじまさきえ)

昭和17年生まれ。愛媛県八幡浜市日土町出身。20歳の時、「ガイ氏即興人形劇場」主宰・水田外史氏に弟子入りし、人形遣いを修業。『ごんぎつね』『サキと山姥』『耳なし芳一』『ぶす』など主要な作品で、長年水田氏の相手役を務める。国内外で精力的に公演を行い、劇団として文化庁芸術祭賞ほか受賞多数。水田氏の死去に伴い、平成12年劇団代表に就任。師の志を継いで巡演のかたわら、新境地開拓のため精進し、人形遣いとしてさらに円熟味を増している。

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 幼い頃から芸事好きな子どもで、近くの了月院というお寺で開かれていたお話し会『つぼみ会』には、中学卒業まで参加していました。特に和尚様が語る“里見八犬伝”を聞くのが、一番の楽しみでしたね。

 社会人になってからも、地元の紡績工場で働きながら『つぼみ会』で子供たちに歌や踊りを教えていたんですが、「もっといい踊りを教えるために、一度プロの先生に学んでみたい」と考えるようになりました。そんな時出会ったのが、創立間もなかった「ガイ氏即興人形劇場」の公演。その素晴らしさに感動して、了月院に投宿していた劇団代表の水田外史先生に相談したところ、「東京にはその道の有名な人がたくさんいる」との言葉に思いが膨らみ、その三カ月後に上京しました。ただ、当初の上京目的はあくまで観光。荷物は風呂敷包みひとつという有様でしたが、結局そのまま東京に居座ることになり、勤務先には多大なご迷惑をかけてしまいました。

 最初は水田外史の内弟子として自宅に住み込み、踊りを学ぶかたわら人形修業に励みました。とにかく水田外史の人形を操る技術に感動し、私もぜひ一緒に仕事がしたいと思ったわけです。お陰様で、日本の人形劇団として初めて東南アジアで長期公演を行ったり、某テレビメーカーのCMに出演するなど、貴重な経験もたくさんさせていただきましたが、なかなか思うようにいかなかったのが言葉。ちょっと気を緩めるとすぐ台詞に訛りが出るため、入団から十年間は役がもらえませんでした。

 初の大役は、創作人形劇『サキと山姥』の主役・サキ。母親思いの素朴な少女サキをお国訛りのまま気楽に演じられたことで、かえって「土くさくて味がある」と好評をいただいた時は、本当にうれしかった。これが転機となり、やっと様々な役を演じられるようになりました。

 人形劇で最も大切なのは、人形が常に「生きていること」。だから、演者本人の気持ちや相手の出方によってその表現は毎回違っていいし、時には人形の動きがリズムを外れてもいい。文楽のような「型」がない分、全身全霊を込めて人形を生かすことが我々の使命だと思っています。

 また、観客との呼吸も大事です。人形を動かしている時、自分から観客は見えませんが、「つまらないと思っている」「今、集中してこちらを見ている」といった客席の空気は感じ取れます。ただしそれは、何度も同じ作品を演じてきた経験と自信から得たもの。お恥ずかしい話ながら、新作披露の際は演じることに必死で、観客の反応を感じる余裕はありません。それでも演技を練り上げる中で「あの人形からいい味が出せるようになった」と言われたい、その一心で新たな試みにも挑戦しています。

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 人形遣い一筋40年。連日公演という多忙なスケジュールだった若い頃、結婚を考えたことがあります。主婦になるか、人形遣いに身を捧げるかで悩みましたが、結局は後者を選んだ。その時から「私は人形と結婚した」と思っているし、悔いはありません。

 ただ、この40年間で心から自分の仕事に満足できたのはほんのわずか。稀代の人形遣い・水田外史に比べたら、私は未だ足元にも及びません。そんな水田外史の跡を引き継いでいいのかという思いは今もありますし、もしかしたらこの先、100%納得できることはないかもしれない。しかしそうした危機感こそが、次の創作意欲につながると信じて取り組んできました。

現在の生活は都内の劇団事務所には毎朝9時半に出勤、雑務を済ませ、稽古や制作をしたり、公演に出かけたりというサイクル。まとまった稽古をする時は、茨城県つくば市にあるアトリエまで出かけます。現在は専属の劇団員が私を含めて五名で、公演の際にはそれに数名のサポートスタッフが加わります。

 最近は関東圏の幼稚園や小学校が主な活動の場ですが、地方公演もあります。私は昔から車の運転が大好きで、地方に行く時は必ず舞台用荷物を積んだトラックのハンドルを握ります。また、地方のおやこ劇場や子ども劇場の場合だと、お母さんたちが作ってきてくださる郷土料理の小夜食も楽しみですね。

 今後の活動としては、師匠・水田外史が亡くなる一週間ほど前に、本人から「『ごんぎつね』を全国の子供たちに見せてほしい」と言われました。ごん役は水田外史の集大成でしたから、私はそれを彼の遺言と受け取ったものの、唯一生前に全く教わることのなかった役。初演では多少戸惑いましたが、「水田外史とは違う独自の世界を切り開いた」との評価をいただき、ほっとしています。今後はこの作品の上演に全力を注ぐつもりです。

 そしてもうひとつの代表的な演目、指に玉を指して詩情豊かに母と子の情愛を表現する玉人形の『雨々ふれふれ』は、水田外史が編み出した劇団の原点。「玉のかわりにみかんを指せば子供でも演じられる」として、これまでも学校などで積極的に教えてきました。みかんの代表的産地の出身者であることも意識しながら、今後はそうした人形劇のおもしろさを伝える活動をしていきたい。その一方で、『耳なし芳一』など仕掛けの大がかりな作品も、ぜひ再演したいですね。

 私にとってのふるさと。真っ先に思い出すのは紡績工場で織り子として働いていた頃のこと。また、九人兄妹の五番目に生まれ、好きな歌や踊りを存分にさせてくれた家族や、了月院で過ごした楽しい時間も忘れられません。八幡浜に暮らす妹から送られてくる“じゃこ天”や“みかん”を味わうと、当時の懐かしい光景が浮かびます。

 お世話になった和尚様や両親も今は亡く、工場も閉鎖されてここ数年は足が遠のいているんですが、同窓会の折には帰郷するようにしています。恩師や友人と会うのも楽しみだし、昔と変わらない景色を見るとやはり心が落ち着きます。

昨年は度重なる台風の発生で、八幡浜でも被害がかなり大きかったと聞きました。母校の日土小学校も大変だったとの噂を聞きとても心配したんですが、その日土小で一度だけ『ごんぎつね』と「ぶす」を公演できたことが、私にとって最高の思い出。今度は私が演じる『ごんぎつね』を、故郷西伊予の皆さんに見ていただける機会があればと願っています。そして、次世代の人形遣いが私の故郷から誕生してくれたら、こんなうれしいことはないですね。

( 平成17年3月広域情報誌掲載【インタビューにて】)

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