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水産愛媛の誇り、水産帝国における西村、「西村の前に西村なく、西村の後に西村なし」と言われた西村兵太郎は明治17年(1884)3月30日、喜多郡長浜町大字長浜甲636番地(現:大洲市長浜甲636番地)に生まれた。
両親は、米、石鹸、紙を売ったり、新聞代理店をしていた。実は父金太郎と母サダの間には子供ができず、金太郎と他の女の人の間にできた子供を引き取って育てた。それが兵太郎である。
兵太郎は、明治27年に長浜尋常高等小学校尋常科を卒業し、続いて高等科を明治31年に卒業した。
小学校時代の兵太郎は、身体も大きく、学業も優秀であり、常に皆のリーダー的存在であったという。
当時父金太郎も、明治26年から29年にかけて長浜町会議員として活躍中であり、このことは兵太郎に良い影響を与えたと思われる。
小学校を卒業すると、向学心にあふれる兵太郎は、明治31年から、当時新谷にあった私立喜多郡共立学校(大洲中学、現在の大洲高校の前身)へ入学し、木輪の自転車で通ったという。しかし、三年生の時に上級生ともめて相手を殴り、先生に注意を受け中途退学した。その時校長に「校長先生よりも偉い人間になってやる」と言って帰ったという。
明治34年学校を辞め、自宅で日々を送っていたが、17歳で血気盛んな兵太郎は青年を集めて演説会を開いたりもしている。当時愛媛新報の代理店をしていたので、中央、地方の政界の記事に刺激されたのであろう。
それから2年ほどして明治35年に長浜町役場(現:大洲市役所長浜支所)の書記として就職し、戸籍主任となった。父が長浜町会議員を務めていたので当時の町長とも親しかったこともあり、その口添えもあったのだろう。
しかしその役場の仕事も1年半後の明治36年に辞めてしまう。役人のような仕事は、窮屈で兵太郎には向いていなかったのかも知れない。
家にじっとしている兵太郎ではない。明治37年に喜多郡米油組合の書記になった。翌年から3回の徴兵検査をいずれも不合格になる。また、町内で新派劇団を結成し、自ら団長となり、好評を博したという。明治38年5月には笑波と号し、俳誌「シブキ」を発行した。青年西村がなぜ俳誌発刊に情熱を傾けたか、その動機はというと、日露戦争勃発、徴兵検査不合格、新派俳句、新派劇団、新しい空気の起こる国内の情勢の中、「子規の後を継ごう、松風会の後を継ごう」という兵太郎の情熱が「シブキ」の発刊となったのである。
明治42年長浜魚市場の取締役に就任した。「漁師を制する者は長浜町を制する」といったその最初の出発である。時に26歳であった。父の後を継ぐ時期がきた。
明治44年1月、一級町会議員に見事当選した。28歳で町議の中の最年少であった。当時の町長松井健三は、父が町会議員の時の町長であり、俳句界の大先輩ということで、兵太郎も自分の父のように遠慮がなく、指導を受けていたものと思われる。当時64歳の松井町長に兵太郎は「この次は私が町長になりますらい、あんたはやめなさいや。」と遠慮なく言ったということである。
そして大正2年松井町長の退任の後、大正3年4月21日4代目長浜町長に31歳で当選した。金力がなく、あまりに若いというので、町会議員の間でもめて、3議員が身元を保証するという一札を入れて、町長就任を認めたそうである。これは日本中でも珍しかったのではなかろうかと、当時の語り草となっている。
大望を抱き、進取的町政を目指す若い西村町長の活動がこれから始まる。
大正8年2月、喜多郡漁業組合連合会を設立すると共に、その連合会長となり、また同月愛媛鉄道株式会社の鉄道敷設に努力して同社の監査役に挙げられた。ついで、同年3月には愛媛県水産組合代議員に就任し、長浜町長西村兵太郎は郡・県へとその力を伸ばし、着々として政治家の基礎を固めていった。
西村は足元の小さなことにも目を注ぐ、庶民町長、県会議員であった。自宅に風呂があったが、町民の声なき声を聞くと言って、週に2、3回は浜の銭湯へ行っていた。新聞と銭湯は社会大学じゃ、世論がわかると言って、どんなに遅くなっても新聞に目を通し、4畳半の部屋にびっしり積まれた本をよく読んでいた。また、町役場と自宅に居ない時は必ず現場にいたというくらい事業の現場が好きで、雨の日以外は早朝から日没まで座っていたこともあった。
昭和10年は西村にとって、長浜町の仕事の総仕上げの年であった。4月11日長浜水族館開館、8月24日日本七大開閉橋のひとつ長浜大橋開通、10月6日国鉄下灘大洲線開通、同日長浜小学校新築落成など、跳躍する長浜町となったのである。同年10月6日に急逝するまで、その偉業は数え切れない。
「女の嫌いな男は男じゃない」「男は男らしさを出せ」と言って女性はもちろん男性からももて、お酒が入ると隠し芸を披露したという西村。当時の町民の考えと西村の発想があまりにずれていたため、新事業には反対も多かった。しかし、西村は「全員が反対じゃったら仕事は出来んが、一人でも賛成があって、私は『これは良い』と思えばやるんじゃ。」と言って事業を進めていった。
幼少の頃から自分の意思を持ち、主張し続けた西村兵太郎の姿勢は、まさにこれからの時代に必要なものではないだろうか。
昭和13年4月12日、西村遺愛の地旧台場に銅像が立った。現在は移されて、長浜高等学校の校庭に立っている。仕事に生き、仕事に死んだ政治家であった。今も銅像の側を通る高校生達に西村は呼びかけているだろう。「第二の西村、出でよ!」
西村金太郎:1841〜1905 兵太郎の父。西宇和郡神松名村生まれ。明治維新により農民の商業活動が許されると、船の出入が頻繁な長浜(現;大洲市)で商売をする中で、泉サダと懇意になって結婚する。明治26年から29年にかけて長浜町会議員に出て活躍していた。
松井健三: 明治16年35歳で初代長浜町長に就任し、以来明治22年市町村制実施後も引き続いて30年に退任したが、43年にまた選ばれて3代町長に就任。また、万年と号して俳句をよくし、長浜町松風会をつくり、それを主催していた。
参考:西村兵太郎(久保七郎著)、長浜(現:大洲市)の歴史(人物編)(長浜町教育委員会)
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