歴史上の人物

三瀬 諸淵
(1839〜1877)

二宮敬作の甥である諸淵は、20歳の若さで、地元大洲での日本初の電信実験に成功した。福沢諭吉をしのぎ日本随一という語学力を生かし、外交の表舞台で通訳・翻訳に活躍した。シーボルトの孫(イネの娘)高子と結婚。
 

 大洲市の中心をとうとうと流れる肱川。1858年(安政5年)8月、真夏の太陽が照りつける河原でその実験は行われた。実験を指揮するのは長崎帰りの若者三瀬周三(諸淵)。そして、大洲藩の家老をはじめ、町内の有力者、周三の親類ら40人余りがこの実験に協力していた。
 18歳のときに長崎へ渡り蘭学の研さんに励んでいた周三は、2年後のこの年、故郷の大洲に戻ってきた。それまで名乗っていた弁次郎という幼名をあらためたばかりであった。地元の師であり、大洲藩総鎮守八幡神社の神主でもある常磐井厳戈(ときわい・いかしほこ)と語らううちに、大洲での電信実験が具体化したのである。このことを予見してのことか、周三は電信の機械を大洲の地に持ち帰っていた。
 肱川をはさみ、上下流にかけて銅線が架設された。周三が学んだ常磐井先生の私塾「古学堂」から上流へと、その長さおよそ1キロ。「三瀬諸淵の針金だより」と称されるこの実験は、かすかではあったが音が聞き取れて成功した。弱冠二十歳の青年が成功させたこの実験は、我が国電信の起源であり、1981年(昭和56年)には日本電信電話公社(現NTT)によって八幡神社前(古学堂の近く)に記念碑も建てられている。

 周三は、1839年(天保10年)大洲で塩問屋を営む麓屋半兵衛と、シーボルトの愛弟子である蘭方医二宮敬作の姉・倉子(クラ)との間に生まれた。幼名を弁次郎といい、商家ながら代々学問を好む家風のとおり、幼い頃から俊才を発揮していた。5歳で母から聞かされた百人一首を暗誦していたし、9歳で四書の素読を受け、10歳の時に描いた六福神の絵は大洲夷子神社へ奉納された。
 そんな周三に家庭の不運が続いた。1849年(嘉永2年)、4月に母倉子が死去、父半兵衛も5月に母の後を追った。周三は11歳にして両親を亡くしてしまった。麓屋は養子に入っていた者が継ぎ、周三は悲しみを忘れようとするように、常磐井先生の開いていた古学堂で勉強に励んだ。
 1853年(嘉永6年)、15歳のとき、周三の将来の安定を考えた家族が庄屋にさせようと庄屋株を買ったが、学問の道、とりわけ医者として身を立てたいとして断った。そして、家族は自分の歩む道をきっぱりと主張する周三を、叔父で、卯之町(現宇和町(現:西予市))で開業していた蘭方医二宮敬作のもとへと送り出した。1855年(安政2年)の正月、周三17歳のときであった。

 周三が卯之町の敬作のもとで勉強を始めたその年に、敬作が宇和島藩の准藩医として宇和島に移住したため、周三もそれに従った。宇和島では村田蔵六(大村益次郎)の門下に入り、シーボルトの娘楠本イネらとともに蘭学を学んだが、翌年には敬作とともに蔵六、イネ、周三も長崎へと渡った。そこで敬作は医者として開業し、周三はその助手を務めながら蘭学の研さんに励んだ。
 長崎では敬作の医業も順調で、名医とうたわれ盛況を極めたが、2年がたった頃、卯之町に残していた妻イワの訃報が届く。周三は急遽伊予の国に戻る敬作とともに自分も大洲へと戻ってきた。そこで先の大実験となったわけである。

 1859年(安政6年)、大洲での実験で華々しい成果を得た周三は再び長崎に渡り、再来日したシーボルトを迎える。
 幕府の外交顧問となったシーボルトに語学力を認められた周三は、通訳に抜擢されシーボルトとともに江戸に向かう。1861年(文久元年)、周三23歳の春のことであった。

 しかし、シーボルトについては、外国人の顧問という存在には風当たりも強く、その年の10月、シーボルトは幕府の任を解かれ帰国した。長年の師二宮敬作もこのシーボルト帰国の日、長崎で永眠した。このとき周三は外交上の機密を漏らしたと誤解を受け、投獄されてしまう。
 佃島に投獄された周三だったが、獄中では医学書などの翻訳のほか、囚人の治療を行うなど献身的に活躍したので、3年後、1864(元治元年)の出獄の際には、幕府は紋付きを周三に与えてこれを賞した。
 刑期を終えた周三は宇和島藩に招かれ、藩主伊達宗徳の薦めで、藩主の侍女をしていた16歳の楠本高子(シーボルトの孫であり楠本イネの娘)と1866年(慶応2年)に28歳で結婚する。結婚後は、宇和島で通訳として活躍し、各洋学書の翻訳、外国語の指導・教育などにあたった。また、英国公使パークスが宇和島を訪問したときは通訳としてその手腕を発揮した。

 1868年(明治元年)、政府は大阪に医学校と付属病院を新設した。翌年、周三は政府の命により大阪に出向し大学小助教となり、そこではオランダ陸軍医ボードインの講義の通訳などを務めた。また、このころ刑務所医務局にも勤務し、自分の体験に基づいて獄制の改善に努めた。
 その後、1871年(明治4年)に文部省が設置され東京医学校を創設した折りには周三(明治3年に諸淵と改名)が招かれ文部中助教となり、翌年には文部大助教を務めた。同じ年、東京横浜間の鉄道敷設工事の指導にも携わっている。このような土木方面の知識の豊富さは1874年(明治7年)に東京の土木寮に出仕となったことからもよくわかる。

 1876年(明治9年)に大阪病院の一等医に任命されて、周三も我が国医学界の未来に大望を抱いていた矢先、胃腸を患い1877年(明治10年)10月19日に他界する。39歳の若さで世を去った周三であったが、生前に翻訳した数々の名著はその後の日本医学界の発展に大きく貢献した。また外交上でも、開国に揺れる時代の転換期に、通訳の第一人者として交渉の現場で活躍し、日本の歴史にとって重要な役割を果たしたのである。


シーボルト:1796〜1866 ドイツ生まれの医者・博物学者。1823年に来日。長崎の鳴滝塾で診療と教育を行い、次代を担う多くの人材を育てた。1828年帰国の際、日本地図の海外持ち出しが発覚し、国外追放となる(シーボルト事件)。59年再来日。

村田蔵六(大村益次郎):1824〜1869 医師であり、蘭学・兵学にも精通し、江戸、長州、宇和島などで教授する。戊辰戦争では彰義隊を討伐。1869年兵部大輔となり、兵制の大改革に携わるが、同年暴徒に襲われ死去。

二宮敬作:1804〜1862 保内町生まれ。16歳で長崎に遊学。シーボルト門下生となり高野長英らと親交を結んだ。1833年から22年間宇和町(現:西予市)卯之町で医業を開くかたわら、若者の指導にも尽力した。その間、シーボルトの娘イネも預かり学問に開眼させている。

楠本イネ:1827〜1903 シーボルトの娘。二宮敬作らから医学を学び、日本初の蘭方女医となる。宮内庁御用掛の産科医でもあった。

参考:大洲史誌、リーフレット「現代医学の先駆者三瀬諸淵」(大洲市立博物館)、大洲偉人伝五つの足跡(大洲青年会議所)、宇和の人物伝(宇和郷土文化保存会)、宇和町(現:西予市)公式ホームページ