歴史上の人物

山内庄五郎
(やまのうちしょうごろう 1835〜1914)

農家に生まれたが、算術研究にハマってしまい、ついには全国行脚に出てしまった奇才。 田舎ゆえに指導者も参考書も無い環境で、自己流の算術研究に打ち込んだ。

   山内庄五郎は、天保6年(1835)12月23日東宇和郡宇和町(現:西予市)大字伊賀上に生まれた。農家に生まれた庄五郎は若い頃は農業に従事したが、農閑期には木材搬出の仕事で収入を得ていた。剛力であった庄五郎は三十貫の木材も平気で担ぎ出した。また、このころほかの若者を誘って剣術などの稽古にも励んだという。
 その“アルバイト”の現場で三角材(瓦桟)を運ぶために束にして結んでいたとき、その三角材がきれいに円柱状に結束できることに気が付いて面白みを感じた。仕事柄、木材の体積を知る方法に興味を持っていた庄五郎は、この経験をヒントに苦心の結果計算法を考え出した。庄五郎の向学心が目覚めたのは、まさにこの時からであった。
熱中のあまり、今までのように農業や木材搬出の仕事をこなしながらではすまなくなり、自宅の2階に立てこもった。そこで次から次へと実際の問題に取り組み、それを解決する算法の発見に心魂を傾けた。もともとの素養もなく師も参考書もないところで研究を進めることは困難を極めた。計算にはそろばんが使われたが、ときには大豆を並べて自分の算法の実証や算法の発見に利用したといわれる。計算の規模が大きくなってくると、そろばんを3つつなぎ合わせて使ったともいわれる。 食事も家人がそっと運んで黙っておいていくが、それが、次の食事を運んだときもまだそのままになっていることもたびたびであったという。寝食を忘れるとはこのころの庄五郎にぴったりの言葉であった。それほど彼は熱中していた。
 自分の進む道が家庭生活と両立しないことを悟った庄五郎は、終生妻を迎えることはせず、自分の姪に婿養子を迎えて家業を継がせ、自分は算法発見の世界に没入していった。 この姪は庄五郎から娘同然にかわいがられ、彼女が大病を患った際には、庄五郎は21日間断食して全快を祈ったという。
 明治9年、42歳になった庄五郎はついに全国を巡る算術修行の旅に出発した。名ある人を訪ねては北は奥州から南は九州まで、その足跡が残らないところはなく、74歳で帰郷するまで三十余年の長い行脚が続いた。
 行脚にかかる費用は、各地でそろばんの指導を行いこれに充てた。彼は指導した人々の名簿を作り、「連名記」と名付けて残している。この「連名記」は8冊にもなり、現在は町内に4冊が残っている。
 この「連名記」、最初は指導した人々の氏名を載せる代わりにその人の手形を押させていたが、後になると、グループ指導をしたときは代表者名と人数等を記載している。「○○商店」というように個人商店の店員を指導していることが多い。
 庄五郎が最も長く滞在したのは東京で、行脚終盤の7年間を過ごしている。紹介している写真も、帰郷前に浅草の写真館で撮影したものである。
   在京中、東京大学の教授と3日間をかけて競算し、勝った事もあった。立ち会った教授たちは「風変わりな田舎者」庄五郎の能力に驚嘆したという。
 庄五郎は明治41年74歳のとき、放浪生活ともいうべき全国行脚に別れを告げて帰郷、大正3年(1914)、80歳で大往生をとげた。その戒名「金剛軒法算透海居士」。
 郷里で静かに晩年を過ごした庄五郎。誰かが簡単な足し算を質問しても、「待て待て」と口癖のように発して、ゆっくり考えてから答えたという。

宇和郷土文化保存会編「宇和の人物伝」より