歴史上の人物

横綱前田山
(高砂浦五郎)

 “張り手旋風”を巻き起こした現役時代。そして引退後は、伝統を重んじる相撲界において常に進歩的な考え方で、国内はもとより海外に向けても積極的に国技の普及、人材の発掘に努めました。

   のちに第39代横綱となる萩森金松は、大正3年(1914)5月4日、旧喜須来村(現在の西宇和郡保内町喜木)に12人兄弟の末弟として生まれた。
 幼少時代から「金ちゃん」と呼ばれ親しまれていた。小学校時代には、かなりわんぱくのいたずらっ子で、卒業後は映画俳優になるといって胸を張っていたという。
 昭和3年(1928)14歳の時、先代高砂親方(元大関朝汐)の「メシが腹一杯食えるぞ」の一声で入門を決めた。親方は同じ愛媛の新居郡玉津村(現西条市)出身であった。翌4年春場所、シコ名を喜木山と名乗り初土俵を踏み、同11年十両、同12年春場所入幕、異例のスピード出世で同13年大関に昇進した。
 闘志あふれる取り口と強烈な張り手は有名で、同16年春場所には“張り手旋風”を巻き起こし、双葉山・羽黒山・名寄岩の立浪3羽カラスを総なめにした。時として批判も受けた張り手だったが、個性を貫いた。同19年秋場所で初優勝を飾り、同22年の春場所後、第39代横綱になった。雲竜型で土俵入りの前田山の化粧まわしは、紺地に金色のかぶと。大関を9年半務めていた前田山は、このとき33歳になっていた。

 現役時代の前田山は、身長180センチ、体重125キロで、闘志の権化のような力士であり、また、稽古の鬼と言われていた。現役時代の最大の喜びは、新十両として番付に載ったとき、昭和13年の春場所で玉錦に取り直しの一番で勝ったとき、横綱になったときなどであったと生前語っている。
 逆に、一番苦しかったのは、昭和8年右腕が骨髄炎にかかって医者に再起不能といわれたときであったという。再起不能といわれた右腕が、慶応病院の前田和三郎博士の努力で治り、復帰してからは恩義を感じて「前田山英五郎」と改め、オールドファンに懐かしい前田山が誕生したのである。「英五郎」というのは、上州の侠客大前田英五郎の名にちなんだものである。

 引退後は高砂親方として相撲を海外へ普及しようとずいぶん努力し、たびたびハワイ巡業やアメリカ本土への巡業を繰り返した。外人力士第1号の高見山(現東関親方)はこの海外巡業で発掘した力士であった。 変形仕切りの前ノ山(八幡浜市)、長く親方の付け人を務めた愛宕山(八幡浜市)、横綱吉葉山の土俵入りで露払いも務めた鯉ノ勢(今治市)など、郷土出身の力士が同時期に高砂部屋に入門した。幕内行事としても松山市出身の木村校之助がいた時代である。 この後、当分愛媛県からは幕内力士がでなかったが、平成8年に玉春日(東宇和郡野村町(現:西予市))が入幕し、敢闘賞、技能賞、殊勲賞を受賞するなど、活躍中である。

昭和46年8月17日、高砂は肝硬変のため57年の生涯を閉じた。翌47年、彼が海外巡業でその才能を見いだした高見山が名古屋場所で初優勝を飾った。
 前田山の通算成績は、307勝・152敗・73休み、優勝は1回。
 愛媛県唯一の横綱である。

※参考:「保内町誌」「平成10年10月18日付け愛媛新聞朝刊記事」