歴史上の人物

中江藤樹
11歳にして孔子の思想に触れ、自分の生き方を決めた藤樹。後に近江聖人と呼ばれるほどの高い人徳は大洲の地で培われました。

   中江藤樹(与右衛門)は慶長13年(1608年)、近江の国小川村(現在の滋賀県安曇川町)に生まれた。父は農家を営んでいたが、武士であった祖父は自分の後を継がせようと藤樹を養子にして米子で教育を始める。藤樹、9歳の時であった。

 武芸のみが重んぜられるそんな時代に、祖父吉長は学問もまた武士に必要であるとして、藤樹に文字を学ばせた。その頃9歳の子どもに文字を習わせることは珍しい事であった。

 人一倍向学心が強い藤樹はどんどん文字を覚え、本を読んだ。文字の上達ぶりはめざましく、祖父が手紙を代筆させたほどだった。

 元和3年(1617年)、祖父が仕える米子の殿様・加藤貞泰が大洲に国がえになり、10歳になった藤樹も祖父母とともに大洲に移り住む。その年のうちに、祖父は風早郡(かざはやぐん、現在の北条市)の奉行になり、藤樹も同行した。13歳の春まで風早郡で過ごすが、この間に様々な書物を読み、いろいろな考え方を学んだ。そして11歳のときに孔子の「大学」に出会う。

 「人として生まれたものは誰でも自分の行いを正しくすることが根本である。それができてこそ本当に人間らしい人間といえる」という孔子の教えを知った藤樹は、教えのすばらしさはもちろん、自分のようなものにこんなにすばらしい書物を読めることはなんとありがたいことかと感激し、藤樹の生きる道は自ずと決まった。

 祖父とともに大洲へ戻った年、祖母が亡くなった。その翌年、藤樹は元服を迎え、いよいよ独立することになるが、祖父吉長も祖母の後を追うようにして亡くなってしまった。
 故郷から遠く離れた大洲で、たった一人になってしまったが、前々から藤樹を見込んでいた当時の家老・大橋作右衛門は、祖父と同じ百石を賜るよう取り計らった。15歳で一人前の扱いをされるようになった藤樹は気遣い・気苦労も多く、「身は眠っても心は眠らず」と当時の様子を書き残している。
 17歳の年、藤樹は京都から来た禅僧から「論語」の講義を受ける。しかし、上編が終わると禅僧が帰ってしまったため、大金をはたいて購入した「四書大全」を読み始めるが、他の武士たちの目をはばかって夜中に読み、意味が完全に分かるまで何度も読み返したという。
 祖父の死から3年後の寛永2年(1625年)、藤樹18歳の年にふるさと小川村の父の訃報が届く。近江へ駆けつけ喪に服し大洲へ戻ったが、母を連れて帰れなかったことを悔やんだ。
 藤樹が20歳の時、2,3人の同士が藤樹に教えを請うてきた。講義するため、藤樹は「大学啓蒙」などの本をわざわざ自分で書き、門人に与えた。

 寛永6年(1629年)と寛永9年(1632年)の2回、藤樹は近江に帰り、母親を呼び寄せようとしたが、ふるさとの土地と墓を守ろうとする母親をどうしても説得することはできなかった。また、帰省の際、大洲へ帰る船上で、藤樹は一生の持病となる喘息を患う。藤樹は25際となっていた。
 寛永11年(1634年)、母を思い自分も喘息に苦しむ藤樹は、ふるさとへの念がさらに募り、たびたび辞任の希望を藩に伝えていたが事は上手くはかどらなかった。藤樹はついに脱藩を決意し、10月大洲の地を発った。こうして藤樹の大洲時代は幕を閉じる。

 近江で母と再会を果たした藤樹は、京都で藩からのおとがめを待っていたが、藩からは何のおとがめもなかった。
 大洲のほとんどの財産を処分してきた藤樹はわずかな元手で小さな酒屋や米屋を営み生計を立てた。それでも、なお生計は苦しく、刀や古着を売りながらの質素な生活だった。
 近江へ戻った後も、大洲との縁がきれたわけではなかった。藤樹に入門しようと、大洲の武士たちが遠路をいとわず藤樹の元を訪れたのである。その数30余名にもなり、藤樹の家には常に5名ほどは住み込んでいる状態であった。脱藩すれば重罪を課せられた時代に藩士たちの藤樹への入門を藩は許していた。藩の藤樹への信頼が伺える。
 それまで与右衛門と呼ばれてきた藤樹の家の前には、大きな藤の木があり、その木の下で講義することから藤樹先生と呼ばれ始め定着した。地元の門人たちも次第に増え、藤樹を慕う人たちの手により、「藤樹書院」も建てられ、藤樹はそこで学問を説き、本を書いた。
 「大学」に触れて以来、朱子の教えを型どおりに、またかくなに守ってきた藤樹だったが、次第にその教えに疑問を持つようになり、37歳の時に「陽明文書」を読み陽明学に目覚める。そして、自分のそれまでの学問の成果も盛り込んだ「藤樹学」を大成するに至る。
 また、私生活においては、早婚が多かった当時のこと、周りのものも結婚を勧めていたが、かたくなに書の教えを守っていた藤樹は、礼記にある教えのとおり30歳になるまで結婚しなかった。30歳の時、やっと藤樹は17歳の高橋久子と結婚した。久子の容姿があまりに悪かったので、「帰してはどうか」という母の勧めにも、藤樹は「容貌の美しさは年とともに消えるでしょう。けれども、心の美しさは年とともにますます現れます。この嫁は心が正しいようですから必ず美しいものとなりましょう。」と答えた。
 実際、久子はよく気が付きよく働くすばらしい女性で、門人からも大いに慕われ尊敬された。しかし、久子は2人の子どもを授かった後、26歳にして亡くなってしまう。藤樹は39歳であった。

 藤樹は41歳になり、その人格も高まり、学問は一層進んでこれからの活躍が期待されていた慶安元年(1648年)のこと。前年に再婚した相手との間にも子どもを一人もうけ3児の父となっていた藤樹であったが、この夏喘息がひどくなり、8月25日看病の甲斐もむなしく息を引き取った。「私の命は終わろうとしている。私が死んだ後、私の学問を頼む」と最後の言葉を残したそうである。

 多くの門人たちによって語り継がれた藤樹の思想は、大洲の地にも今も深く根ざしている。毎年秋には大洲高校の藤樹祭を皮切りに、小学生の意見発表や講演会など様々な事業が藤樹まつりとして開催されている。