歴史上の人物

シーボルト
晩年まで日本を思いつづけた「なんでも学者」

   医学のみならず、博物学の分野まで幅広い研究を行っていたドイツ人、シーボルト。彼自身が愛媛を訪れた記録はないが、弟子たちを通じての関わりは深い。
 シーボルト事件で共に投獄された愛弟子二宮敬作は保内町生まれ。宇和町(現:西予市)でも永く医業を営んだ。シーボルトの娘楠本イネは、敬作のもとで医業を手伝いながら青春期の5年間を宇和町(現:西予市)で過ごしたと伝えられている。彼女は後に日本初の蘭方女医となった。
 また、イネの娘高子は、同じくシーボルトの弟子であった三瀬諸淵(みせもろぶち)、(大洲市、敬作の甥)と結婚している。
 シーボルトは、ドイツのヴュルツブルク市に生まれた。祖父と父は高名な医学教授というドイツ医学界の名門の家であった。 彼の一族が活躍するヴュルツブルク大学は「シーボルト学校」とまで言われていた。彼はそのヴュツブルク大学に入学すると、医学をはじめ、植物学、動物学、人文地理学、人種学などを学んだ。卒業後、1822年にオランダ領東インド陸軍病院の外科少佐となり、翌年の4月にジャワ島に赴任した。直後、日本(長崎出島)駐在の医者として、また日本研究の目的を持って日本渡航を命じられた。長崎の地に立ったのは1823年8月。シーボルトはまだ20代の頃であった。

 彼は日蘭貿易再興のため、日本についての調査研究を精力的に行った。研究は日本人の協力も得ながら政治・経済・歴史・地理・文化・自然など広範囲にわたって進められた。 彼は帰国後、日本での研究の成果をまとめ、通称「日本」と呼ばれる記録集を出版している。これは当時の日本の国家制度や日常生活の様子を知る上で、今や日本にとっても貴重な資料となっている。
 シーボルトは調査や医者としての仕事のかたわら、志に燃える青年たちを相手に鳴滝塾(鳴滝塾)でオランダ語や医学についての講義を行っていた。ここでは先の二宮敬作も学んでいた。この鳴滝塾の集まりがシーボルトと日本とをつなぐ重要な接点となったことは、彼自身が後の著書で述べている。


 1828年秋、シーボルトは任期を終え帰国の手はずを整えていた。しかし、彼の積み荷の中から日本地図など国外持ち出し禁制の品が発見され、二宮敬作などシーボルトに関係する人たちが投獄された。これがシーボルト事件である。シーボルトは幕府の取り調べの後、帰国命令を受け、約1年後の1829年12月30日に長崎から出国した。このとき、弟子の高良斉(こうりょうさい)と二宮敬作は漁師に変装し小舟に乗って船上のシーボルトを見送ったという。


 30年後の1859年、63歳になったシーボルトは長男アレキサンデルを伴って再び日本を訪れている。貿易会社の仕事での来日であったが、仕事は不調であり結局その時点で会社を辞めてしまった。その後、幕府の顧問として三瀬諸淵を連れて江戸に赴き、1862年まで滞在している。彼が日本を離れる日、長崎まで見送りに来ていた二宮敬作は59歳でこの世を去った。
 オランダへ戻ったシーボルトは公職を辞し、妻子を連れて生まれ故郷であるドイツのヴュルツブルク市へ戻った。
 彼は1866年10月18日、「美しき平和な国に行く」と言い残して70歳でこの世を去った。
 シーボルトが生まれて200年経った現在、シーボルトゆかりの大洲市、保内町、宇和町(現:西予市)ではそれぞれ彼の故郷ヴュルツブルク市とそして子孫であるブランデンシュタイン=ツェッペリン家と交流が進んでいる。とくに宇和町(現:西予市)では、1996年夏、シーボルト生誕200年記念展の開催に併せて、シーボルトとイネの子孫が一堂に会しての「シーボルト、イネ顕彰サミット」を実施した。
 「夜明け前」の日本、シーボルトが長崎鳴滝塾で灯した向学の光は、二宮敬作、三瀬諸淵ら愛弟子の力によってこの八幡浜・大洲地域を今も照らし続けているのである。
*現在、「シーボルト」の名は子孫の間では残っていない。
シーボルトの次女がブランデンシュタイン家に嫁ぎ、その息子が、飛行船建造で有名なツェッペリン伯爵の娘と結婚したため両方の家名を継いでいる。シーボルト家の遺産を受け継いでいるのは、現在このブランデンシュタイン=ツェッペリン家のみである。