
今回は日本を代表する無級建築家、松村正恒の80年の生涯を追っていきたいと思います。
松村正恒は、大正2年(1913)愛媛県大洲市新谷町に生まれました。2歳のときに父と死に別れ、祖母の元で育ちました。
大正8年(1919)小学校へ通い始めました。この学校は夕暮れになると農閑期の青年が次々とやって来ましたが、遊びに来てるわけではありませんでした。なんと夜にも学校が開かれ、しかもその先生が小学校の先生だったのです。 また当時学校には鍵がかかってなく、裁縫室の畳の上では、中学生が夜を徹し人生を語り明かしていました。このように「学校が完全に活用されされ、利用されている」これが学校の真の姿であると、子供心から教育の原点と学校の在り方を教わったそうです。
松村は得意な絵を生かそうと建築家をこころざし昭和7年(1932)武蔵高等工科学校へ入学しました。材質の試験に「建設は30年の寿命があればよい。30年すればたたき潰せ。そういう覚悟で建設をするべきだ。」という答案を提出するなど、いわばマセた建築少年振りを発揮していました。その松村に目を付けたのがバウハウス帰りの蔵田周忠教授でした。蔵田周忠教授は当時の雑誌『国際建築』で独壇場の建築家でした。
高校卒業後は、その蔵田周忠教授の勧めに従い昭和10年(1935)土浦亀城建築設計事務所へ入所しました。土浦先生は有名なアメリカのライトの所で修行し、当時の日本では最も進歩的な建設の設計者でした。
当時の松村は寝食を忘れ働き、「生涯最も緊張せし時期」と語っています。昭和14年(1939)には満州の土浦事務所へ移動しました。しかし昭和16年(1941)次々と頼まれる仕事を適当に処理していくのがやりきれなくなり、土浦事務所を退所しました。東京に戻り、農地開発営団へ入り農村建設の調査研究をしました。その後、新潟に住み、秋田・山形・長野・富山・石川・福井を対象地としていました。
昭和18年(1943)戦争が開戦されたが正恒は軍に召集もなく、空襲に遭うこともなかったたが、蓄えもありませんでした。昭和20年(1945)に故郷に帰ってきたのですが、一週間断食など貧しい生活をおくっていました。昭和23年(1948)に八幡浜市役所(土木課建設系)に就職したのですが、市役所に就職した理由は、いわゆる食うためで、いつも辞表を懐に入れて仕事をしていました。
また自分の考えを通すため地方新聞に、都市計画、建築とはこういうものだと解りやすく書いて投票していました。「それはそれで充実した時代だった」と語っています。
八幡浜市役所に就職した松村は江戸岡小学校の設計を任され、昭和28年(1953)に江戸岡小学校が竣工しました。木造二階建ての江戸岡小学校は開放的なデザインで、光がふんだんに教室に届くよう独自の採光システムを考案していました。ガラスを多用し、三方がガラス張りの特別教棟には、階段を上がったスペースに子供たちがくつろげるようベンチが設けられています。階段は子供の体格に合わせ、通常より傾斜を緩やかにしています。この江戸岡小学校は同年の『建築情報』にも掲載されました。
昭和32年(1957)には松村が設計した神山小学校が竣工しました。この学校は一直線タイプではなく、教室がジグザグになっていました。神山小学校の設計にあたり教育長と、この様なやりとりがありました。
教育長:「こんな学校見たことがない。採用できん。それにお金がかかる」
松村:「いや、お金はかかりません」と嘘をつき、「設計させて貰えんのなら市役所辞めます」。
などのやりとりがありました。結果的に松村の意思が通り、実現はしたのですが非常に安い工費で建てられました。「そうでもしないと理想が現実いたしません。辛いところでございます」と語っています。
昭和33年(1958)には木造二階建ての日土小学校が竣工しました。松村正恒が設計した中で最も有名なのが、この日土小学校です。日土小学校にも採光システムを考案し、階段も通常より傾斜を緩やかにしています。二階のベランダは川の上へ突き出し、河川法違反でしたが、それに対し、「その代わり、ここで学ぶ子供が、こんな美しい環境で勉強できたことを思い出し、心が清められるのであれば、私の罪ぐらいは償える」と押し通しました。
アカデミックな立場から見た日土小学校の評価は高く、20世紀の近代建築に光を当てる建築家の国際組織DOCOMOMOが選ぶ各国の近代建築ベスト20に日土小学校は入っています。日本では平成11年(1999)に日本建築学会が選定作業に参加し、丹下健三や吉阪隆正両氏の作品と並んで選らばれました。
昭和35年(1960)の『文藝春秋』の「建築家ベスト10」という特集で、松村は日本を代表する建築家に選ばれました。しかし松村は名を上げることを嫌っていました。同年、八幡浜市役所を退職し、自称「無級建築士」とし松山市に松村正恒建築設計事務所を開設しました。事務所の入り口に掲げられた登録証は、ある時は「無給建築士」、またある時は「無休建築士」と次々に肩書きを変えていました。
その後、実に多くの建設物を設計したかも係わらず、メディアから遠ざかりました。むしろ地元での社会的活動などに力を注ぎ、昭和55年(1980)には日銀松山支店保存運動代表幹事、平成2年(1990)には新日本建築家協会第1号終身会員に選ばれました。そして 平成5年(1993)に80歳で急逝したが、その直前まで現役の建築家として活動していました。
松村が設計した校舎は老朽化の影響もあり年々減少しています。今では日土小学校と数校を残すのみとなっています。しかし取り壊す際は「さよなら学び舎集会」などが開かれ、卒業生などからは惜しむ声も上がっています。そんな愛される校舎を設計した松村正恒は日本を代表する建築家といえるでしょう。
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