歴史上の人物

かわさき らんこう
河崎 蘭香
(1882〜1918)

画家として、一人の女として歴史に名を残した短命の女流画家
   八幡浜市郷、蔵福寺の本堂裏を大洲市へ抜ける国道沿いの日当たりの良い場所に河崎蘭香の墓があります。今回は画家として、一人の女性として歴史に足跡を残した河崎蘭香の37年の生涯を追っていきたいと思います。

 河崎蘭香は、明治15年(1882)11月9日、西宇和郡郷村(現八幡浜市千丈郷)の医師神山謙斎の次女として生まれました。名を菊といい、明治8年(1890)郷村に開校した、石堂小学校の校長河崎奨(たすく)郁(かおる)夫妻の養女となりました。

 父奨は嘉永2年(1849)京都淀藩士の子に生まれ、鳥羽伏見の戦いでは幕府軍に加わりました。幕府軍の敗北により元号は明治となり、戦いで負傷した奨は官軍の目を逃れ宇和島にたどり着き、その後八幡浜の大内金助の父惣吉によって船で八幡浜に連れて来られました。明治8年(1865)郷村に石堂小学校が開校されると奨は推されて教頭となり、第2の人生を歩み始めました。
 明治14年(1891)に校長となった奨は大洲の旧士族、渡郁と結婚、ともに教壇に立つ事となります。郁婦人は、県下の女性教師第一号でした。

 蘭香は石堂小学校を卒業後、上京し音楽学校に入学。1年後に卒業すると、今度は画家を志し、明治32年(1899)京都、日本画家菊池芳文(きくちほうぶん)の門下生となり、四条派の画法を学びます。明治34年(1901)20歳の蘭香は、八幡浜栗野浦の八坂神社本殿の天井を飾る絵を30枚受け持ち、梶谷南海や他の郷土の画家とともに描き奉納しました。
 明治35年(1902)11月に再び上京、東京美術学校の教授であった寺崎廣業(てらさきこうぎょう)の門下生となり、特に風俗・人物画の研鑽を重ね、絵画共進会にも入会します。

 そんな時、後に八幡浜市長を二期勤め、名誉市民となった菊池清治が、東京帝国大学の学生の時同級生だった金森徳次郎(かなもりとくじろう)を誘い蘭香の下宿を訪ねています。それがきっかけとなり蘭香と金森との交際が始まりました。二人は恋に落ち、本郷帝大前で同居生活を始めます。この時蘭香23歳、金森徳次郎19歳の学生でした。しかし、この二人の恋は金森の両親の強い反対で結ばれる事はなく、蘭香が亡くなるまで14年間に渡る交際が続く事になります。
 金森徳次郎は東京帝国大学法科を卒業後、大蔵省を経て内閣法制局に入り、本務の傍ら諸大学で憲法を講義。そして法制局長官となり、のちに入閣し、日本国憲法の生みの親となります。

 明治40年(1907)、蘭香は東京勧業博覧会に「冷美」を出品、鏑木清方(かぶらききよかた)、結城素明(ゆうきそめい)らとともに見事三等賞に輝きます。ちなみに一等は師の寺崎廣業と川合玉堂(かわいぎょくどう)でした。
 同年に文部省美術展覧会が発足し、この第一回文展に蘭香は「夕雲」を初出品し初入選、第三回展には「姉妹」、第四回展「たはむれ」、第五回展「歌のぬし」、いずれも女性を描いた意欲的な作品を毎年出品します。第六回展「夏の夕」は屏風六曲一隻の大作で、いずれも連続入賞を果たしました。
 大正3年(1914)第八回文展には「広間」を出品し褒賞。第九回展では「霜月十五日」が三等賞を受けます。この時の総応募数は2,146点、三等賞は21点で実に1.4%の厳選でした。また、明治40年代より女性雑誌「女学世界」「婦女界」「婦人画報」などの口絵や表紙絵を担当し、精力的に活動して女性の人気をさらいます。当時、画壇は若い女性をモチーフにした美人画が全盛に向かいつつある時期。美人画は江戸時代の浮世絵の流れで、一般大衆にも分かりやすいものでした。文展第一回展からの美人画の女流画家には蘭香のほか、上村松園(うえむらしょうえん)・池田蕉園(いけだしょうえん)などが挙げられます。これらの女流画家がやがて美人画の黄金時代を築きますが、第十回展を境に審査の風潮が変わり、美人画は次第に衰退していく事となります。大正7年(1918)の第十二回展を最後に文展は帝展に変わる事になります。
  この頃から蘭香は東京で30名ほどの門弟の指導に当たり、画家として揺るぎない地位を確立していました。この時の門下生であった晴蘭が、蘭香の死後金森徳次郎と結婚する事となります。大正3年(1914)6月には郷里より両親を招き、しばらく滞在させています。
 大正5年には松山の俳人高浜虚子(たかはまきょし)・河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)・内藤鳴雪(ないとうめいせつ)やジャーナリスト森円月が主幹する「同郷文芸会」にゲストとして招かれ、県人との親睦を深めています。

 しかし大正6年(1917)2月10日、父奨が病死します。その頃から蘭香は健康が勝れず、7月26日東京を離れ箱根の湯本に湯治旅行に行きます。秋には東京の自宅に戻りますが、第十一回の文展に出品する事は出来ませんでした。

 その翌年大正7年(1918)2月21日、流行性感冒(インフルエンザ)にかかり、東京大学病院青山内科に入院中、心臓病を併発して3月12日午前3時、37歳の若さで亡くなりました。遺骨は金森徳次郎ではなく、郷里での婚約者が引き取り、父の菩提寺となった郷里の蔵福寺の墓地に納められました。

 蘭香の死から35年後、金森は蔵福寺にある蘭香の墓を訪ね、次のように回顧しています。「往時を追想し、万感こもごも迫るものがあった。後年、憲法改正の時家族制度是正の論議に私は深い感激を持って説明した」(「私の履歴書」日本経済新聞社)
 蘭香との結ばれなかった恋が、金森を民主憲法、とりわけ個人の尊厳が認められる家族制度の制定に導いたのかもしれません。

 画家として自立し、金森との恋を貫き通した蘭香の生涯は、まさに女性の存在を世に示した、大正という時代を代表する女性の一人といえるでしょう。

河崎蘭香一略歴
1882 明治15 西宇和郡郷村(現八幡浜市郷)に誕生。
河崎奨(たすく)の養女(実父は郷で代々続いた開業医神山謙斎)、名は菊(きく)。
1898 明治31 郷の石堂小学校を卒業。
上京。音楽学校に学ぶ。
1899 明治32頃 京都、菊池芳文について絵を学ぶ。
1901 明治34 八幡浜栗野浦の八坂神社に格天井画を描き奉納(市指定)。
1903 明治36 再度上京、東京美術学校の教授であった寺崎広業の門下となり画道に専念。
1904 明治37 この頃から金森徳次郎との交際が始まる(この後約14年間に及ぶ)。
1907 明治40 東京勧業博覧会に出品、鏑木清方、結城素明らとともに三等賞となる。
第一回文展に「夕雲」を出品し、入選。
1914 大正3 第八回文展「広間へ」褒賞。
1915 大正4 第九回文展「霜月十五日」三等賞。
1917 大正6 春より健康を害す。(養父奨が病死。68歳)
7月26日、東京を離れ箱根湯本にて養生。
秋に東京の画室へ戻る。
1918 大正7 2月21日、東京大学病院青山内科に入院。
3月12日、東京にて惜しくも病のため死去。
墓所は、生誕の地である八幡浜市郷の圓満寺蔵福寺。