
あさしおたろう
朝汐 太郎
(1864〜1920)
故郷に錦を飾った、高砂部屋を代表する出世名跡、名大関 初代「朝汐太郎」 |
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「朝汐太郎」。特に相撲が好きという人でなくても、一度くらいは名前を聞いたことがあるのではでしょうか。しかし、この有名な「朝汐太郎」というしこ名を最初に名乗った初代朝汐太郎が、実は郷土の出身だということを知っている人は意外に少ないかもしれません。
今回は名大関、初代朝汐太郎を紹介します。
朝汐太郎は幼名を太郎吉といい、1864年増原勘十郎の長男として八幡浜市に生まれました。(出生地は、西宇和郡瀬戸町塩成)
幼い頃から体力は抜群で、7歳の頃には一斗(18L)樽を軽々と持ち上げたといいます。
その後太郎吉は八幡浜の大地主、大黒屋吉蔵の家に奉公し、木蝋(ろう)製造の蝋打ちの仕事をしますが、仕事そっちのけで大黒柱を相手に突っ張り稽古ばかり。素人相撲のある日は、仕事を休んで土俵に上がる始末で、奉公先の主人もたまりかねて叱りつけることもありました。
1881年、太郎吉の力と体力を見込んだ力士朝嵐に連れられ、大阪の押尾川部屋に入門します。この時太郎吉17歳。その2年後には「朝汐」の名で初土俵を踏みます。
1889年、大阪相撲に飽き足らなくなった朝汐は上京、26歳で高砂部屋に入門します。その時に高砂親方から「四股名(しこな)が素人臭いから改名してはどうか」と言われた朝汐は「強うなりゃ、ええ名になります」と答えたといいます。
その後4年8場所ぶりに関脇に昇進します。当時は今と違い、春秋2場所制だったので、強ければ昇進が早いということではなかったようです。
関脇を5年11場所を勤めた後、1898年晴れて朝汐は大関に昇進します。
大関に昇進すると、旧宇和島藩主伊達侯から伊達家の家紋である「竹に雀」の紋章入りの化粧回しが贈られました。
身長179cm、体重102kg。得意技は右四つ寄り、上手投げ。正攻法の取り口で、投げを打ちながら鋭い出足を活かして寄るのが巧く、引き擦るような下手投げは独特だったといいます。「高砂部屋に朝汐の右に出るものはない」とまで言われましたが、その外見はお世辞にも器量が良いとは言えず、「おこぜ」というあだ名が付いていたんだそうです。
また朝汐は大変な酒豪で、日本酒一斗を平らげたこともあるそうで、公式記録では日本橋の料亭で酒6升にビール36本を空けたというのが残っているそうです。
また、大変な愛妻家で、長崎で当時まだ珍しかったライス・カレーを覚えるや、早速自慢の腕をふるったといいます。
長年に渡り安定した力を見せた朝汐でしたが、梅ヶ谷と常陸山が東西両横綱時代であったために上がつかえており、また梅ヶ谷と常陸山が引退した後も小錦に先を越されてしまい、結局横綱になることは出来ませんでした。
横綱になれなかった原因としてもう一つ、面白いエピソードがあります。当時相撲が大好きだった明治天皇が高砂部屋においでになり、朝汐とともに土俵に上がりました。その時に朝汐は「素人に負けてたまるか」と、明治天皇を投げ飛ばしてしまったんだそうです。事の真偽はさておき、実直な性格の朝汐らしいエピソードといえます。
1900年、朝汐は愛媛で地方巡業を行い、八幡浜でも相撲興行をします。その時土俵になったのが現在の大黒町3・4丁目付近で、当時海を埋め立てたばかりの新地だったその付近には川が流れていて、見物人は遠回りを余儀なくされていました。それを知った朝汐は、地元の豪商らと協力し、力士たちに丸太を運ばせてなんと一夜で土橋を完成させたんだそうです。
その時朝汐は準横綱として綱を締め一日横綱を張り、郷土の人々を感激させました。
その時朝汐がかけた橋は、その後「朝汐橋」と呼ばれるようになりました。今では川は埋め立てられ、橋もなくなってしまいましたが、朝潮橋という地名は今も残っていて、1993年5月、近くの児童公園内に地元の有志が記念碑を建立し、その裏面には八幡浜市出身の彫刻家・塩崎宇宙さんが制作したブロンズのレリーフがはめ込まれています。
その後年齢とともに盛りは過ぎて徐々に衰退期に入り、1903年には大関を陥落、関脇、小結、平幕と下っていってしまい、1908年1月場所をもって現役を引退しました。
そして引退後は年寄佐野山を名乗り、相撲界の発展に力を注ぎました。
内幕在位19年、生涯成績は通算138勝76敗31分12預。優勝は2回。
1920年8月26日、56歳でこの世を去りました。
八幡浜市の四国山には相撲広場があり、1903年に建立された朝汐の巨大な顕彰碑が、中央の土俵を見下ろすように建っています。
これからもずっと八幡浜の町並みをここから見守ってくれることでしょう。
| >> 朝汐太郎 幕内略歴 << |
| 明治23年5月 |
東前10 |
5勝2敗2分1休 |
| 明治24年1月 |
東前3 |
6勝2敗1預1休 |
| 明治24年5月 |
東前2 |
1勝2敗1分6休 |
| 明治25年1月 |
東前3 |
6勝2敗1預1休 |
| 明治25年6月 |
東前1 |
5勝1敗3預1休 |
| 明治26年1月 |
東関脇 |
7勝1敗1分1休 |
| 明治26年5月 |
東関脇 |
7勝1敗1預1休 |
| 明治27年1月 |
東関脇 |
2勝5敗1分1預1休 |
| 明治27年5月 |
東関脇 |
8勝1敗1休 |
| 明治28年1月 |
東関脇 |
6勝1敗2預1休 |
| 明治28年6月 |
東関脇 |
10休 |
| 明治29年1月 |
東関脇 |
4勝3敗2分1休 |
| 明治29年5月 |
東張関 |
7勝2敗1休 |
| 明治30年1月 |
東張関 |
6勝2敗1分1休 |
| 明治30年5月 |
東関脇 |
5勝2敗1分1預1休 |
| 明治31年1月 |
東関脇 |
4勝1敗5休(指挫傷) |
| 明治31年5月 |
東大関 |
7勝1敗1分1休 |
| 明治32年1月 |
東大関 |
6勝1敗1分1預1休 |
| 明治32年5月 |
東大関 |
5勝3敗1分1休 |
| 明治33年1月 |
東大関 |
5勝1敗2分2休 |
| 明治33年5月 |
東大関 |
3勝4敗1分2休 |
| 明治34年1月 |
東大関 |
2敗8休 |
| 明治34年5月 |
西張大 |
5勝2敗2分1休 |
| 明治35年1月 |
西張大 |
2勝5敗2分1休 |
| 明治35年5月 |
西張大 |
6勝1敗2分1休 |
| 明治36年1月 |
西張大 |
4勝4敗1分1休 |
| 明治36年5月 |
西関脇 |
4勝4敗1分1休 |
| 明治37年1月 |
西小結 |
2勝5敗2分1休 |
| 明治37年5月 |
西小結 |
5勝3敗2休 |
| 明治38年1月 |
西関脇 |
10休 |
| 明治38年5月 |
西前1 |
1勝1敗8休 |
| 明治39年1月 |
西小結 |
1勝5敗3分1休 |
| 明治39年5月 |
西前4 |
1勝3敗6休 |
| 明治40年1月 |
西前6 |
2勝5敗2分1休 |
| 明治40年5月 |
西前7 |
10休 |
| 明治41年1月 |
西前11 |
10休 |
| 通算 36場所 138勝76敗31分12預103休 |
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