歴史上の人物

たかはしりゅうたろう
高橋 龍太郎
(1875〜1967)

プロ野球球団のオーナーにもなるなど、スポーツ界にも貢献した「ビールの父」
 

  日本のプロ野球で唯一、個人名が入っていた球団があった。それは「高橋ユニオンズ」。昭和29(1954)年からわずか3年あまりで消滅したが、政財界のトップで活躍した人物が、私財をなげうって設立した球団だった。
 その史上唯一の球団をつくったのが、「ビールの父」と呼ばれる高橋龍太郎。彼は生前自らの話題を口にすることを好まず、書き残すこともしなかったため、生い立ちなどはほとんど知られていない。
 今回はその高橋龍太郎を紹介してみることにしよう。

 高橋龍太郎は、明治8(1875)年、喜多郡内子村(現在の内子町)に父吉衡(よしひら)、母ミチ子の次男として生まれた。
 高橋家は庄屋の分家で、広大な田畑を所有する一方で大規模な酒造業を営み、藩政時代、大洲藩の財政の一翼を支えるほど豊かな旧家であった。しかし、明治維新による廃藩で、藩札の価値が無くなると同時に没落してしまう。
 龍太郎の父吉衡は、名家の当主ということもあり教養が高く、また人格者でもあった。内子にできた小学校の初代校長を務め、のちに内子聖人と呼ばれるほどの教育者であった。
 また母のミチ子は、大洲の大きな商家の娘で、その兄は、当時の大貿易商社高田商会の支配人にまでなった人である。
 次男に生まれた龍太郎であったが、兄が生後間もなく死亡していたので、実質的には長男として両親の寵愛を受けて育てられた。
 龍太郎は、やがて旧制松山中学校(現在の愛媛県立松山東高校)に進学し、父の知り合いに下宿することとなる。その龍太郎を預かった数学教師は、なんと夏目漱石の小説「坊っちゃん」に登場する、体育会系で豪快な“山嵐”のモデルとなった人物なのである。
 龍太郎は、極めて優秀な成績で中学校を卒業し、東京高等商業学校(現在の一橋大学)に進学する。しかし、病により転校を余儀なくされ、京都に新しくできた京都第三高等学校(現在の京都大学)工科に移る。そこで健康を取り戻した龍太郎は、学生生活を楽しみ、学業に励む傍ら、キリスト教への知識を深め、またボートの選手としても活躍した。
 明治31年、龍太郎は第三高等学校を卒業後、大阪麦酒株式会社に就職する。
 当時、日本のビール醸造は、ドイツ人技術者に頼らざる得ない状況だったが、非常に高給だったために「すべてを日本人の手で」という醸造会社の目標に合った工科出身の龍太郎が見込まれたのだ。
 龍太郎は、入社半年後にはビールの本場ドイツに留学をし、6年間醸造技術を学ぶ。帰国後すぐに醸造現場で勤務し、醸造技術の習得・改良に取り組んだ。会社は、同業者同士の激しい競争で厳しかったが、やがて日露戦争が始まり、ビールの消費が爆発的に伸び、苦境から脱することができた。明治39年、日本・札幌麦酒と合併し、大日本麦酒株式会社が設立され、吹田工場長となる。
 明治41年、社長の案内役として欧米各国の視察に旅立った龍太郎は、新しい知識を得て、帰国後経営手腕も発揮し、大正6年には大阪支店長となる。
 大正10年には、45歳の若さで取締役に昇進、昭和8年、社長の死去とともに専務取締役となるが、実質的な経営責任者となり、昭和12年、社長に就任する。
 日本が不況のさなかビール会社経営は困難を極めたが、樽やビールの原料であるホップ等の生産を行ない、完全国産化を成功させ、さらには満州支店の開設や桜麦酒との合併など、龍太郎の経営手腕により、当時の世界三大ビール会社の一つとなっていた。
 ホップ国産化によって、太平洋戦争中も生産を続けた大日本麦酒株式会社は、政府の食料対策により原料が全くなくなるまでの、終戦一ヶ月前まで生産を続け、企業の多くが軍需産業に転換する中、ビール業を守り抜いた。
 敗戦後、過度経済力集中排除法により、大日本麦酒株式会社は2社に分割され解散するが、相談役となり生涯をビール醸造業に捧げた。
 日本の財界を支える一方で龍太郎は、高潔な人柄により貴族院・参議院議員に選ばれ、政治の道にも足を踏み入れた。
 昭和26年には、第三次吉田内閣の下で通産大臣を務め、戦後の日本経済復興に尽力する。
 ビール業界から退き、隠居生活を送る昭和28年、映画製作会社大映のオーナーでもあった、永田雅一パ・リーグ総裁に球団設立の話を持ちかけられる。
 当時の球団経営は、娯楽の王者として君臨していた映画製作会社や、販売拡張を狙う新聞社、野球場への観客動員をメリットと考える電鉄会社によって行われていた。しかし、龍太郎は大の野球好きだったため、日本のプロ野球の隆盛のために個人出資で球団を持つことを決意する。それが高橋ユニオンズである。龍太郎78歳のときである。
 ところがスタートしてみると、集まってくるのは1名の高校出のルーキー捕手を除き、各球団をお払い箱になった年をとった選手や、酒好きで監督から見放された選手ばかり。勝てるはずもなく、最初の1年は6位(8球団中)だったものの、2・3年目は最下位に終わった。
 あまりの弱さに、当然のようにユニオンズファンは減っていき、藤井寺の近鉄戦では観客数が両軍選手より少ない22人という試合があったという。ユニオンズで唯一の明るい話題といえるのが、スタルヒン投手の300勝達成であった。
 それでも龍太郎は球団を愛し、どんなに負けが込んでも毎試合、球場に足を運び、選手を激励した。そんな龍太郎を選手も皆尊敬していたという。
 昭和32年、パ・リーグが6球団に整理統合され、球団の解散が決定。シーズンインを控え、岡山でキャンプ中だった選手はそのまま各球団に割り振られた。
 プロ野球発展のために生まれた高橋ユニオンズは、プロ野球発展のために消え去った。
 また、スポーツを愛する龍太郎は、日本サッカー(当時は蹴球)協会会長を務めたこともある。知られてはいないが、サッカー日本一の象徴である「天皇杯全日本選手権大会」の“天皇杯”は、龍太郎の尽力によるものなのだ。
 龍太郎は、多芸多才で書に親しみ『在田』と号し、文人としての風格も備えていた。将棋は坂田三吉名人の人柄に惚れ込み、経済的な援助の一方で、後継者として直伝の棋風を持っていた。
 龍太郎は政財界の長老として尊敬され、悠々自適の晩年を過ごす。昭和42年、92歳の長寿を全うしてこの世を去る。明治、大正、昭和と激動する近代日本の中で、威風堂々と志を貫いた豊かな人生であった。
 龍太郎の生家は、長男故高橋吉隆氏(元アサヒビール株式会社会長)が、郷土である内子町への思いを寄せていたことにより、その遺族によって町へ寄贈され、現在は、文化交流ヴィラ「高橋邸」として一般公開されている。
 「高橋邸」は、高橋氏の精神を引き継ぎ、遠来の客を迎えるゲストハウス・宿泊施設として、また、研修会や小会議、お茶・お華などの文化活動施設として活用され、女性グループ「FUGA」が運営に携わる。現在は、高橋家ゆかりの人たちや、大日本麦酒の流れをくむアサヒビールから、龍太郎ゆかりの写真やパネル、ビールジョッキなどが町に寄贈され、展示されている。

>> 文化交流ヴィラ「高橋邸」詳細 <<
営業時間 午前9時〜午後4時30分
宿泊利用 チェックイン・・・午後5時
チェックアウト・・・午前10時
宿泊料
区分 大人 小学生 幼児 乳幼児
1人使用 4,000円 -- -- --
2人使用 3,500円 2,500円 1,000円 --
朝食 800円
諸経費 500円
備考 □幼児は、3〜5歳 □乳幼児は3歳未満 □消費税別途
施設使用料
区分  4時間以内   8時間以内   24時間以内 
営利的利用 3,000円 5,000円 10,000円
非営利的利用 1,500円 2,000円 4,000円
備考 □消費税別途
宿泊予約 火曜日を除き、午前9時から午後4時30分まで
休館日 火曜日(宿泊利用を除く)
駐車場 有り
お問い合せ ●高橋邸
〒791-3301
愛媛県喜多郡内子町大字内子甲1296番地
TEL:0893-44-2354(FAX兼)


●内子町役場町並・地域振興課
〒791-3301
愛媛県喜多郡内子町大字内子甲780番地
TEL:0893-44-2111
FAX:0893-44-6136
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