歴史上の人物

しらい うざん
白井 雨山
(1864〜1928)

東京美術学校彫刻科に塑造(そぞう)科を開設した日本彫刻界の父
 

 平成13年、宇和先哲記念館敷地内に、日本彫塑界の重鎮・白井雨山の石碑が建立された。
 最近では雨山の生家跡を知る人も少なくなり、それを懸念した「雨山会」の会員により雨山の原点を後世に伝える目的で建立されたものである。

 白井雨山は、元治元年(1864)3月1日、現在の宇和町(現:西予市)卯之町四丁目雨山下に、父佐平、母なみの四男として生まれ、保治郎と命名された。
 家は代々山内屋という米商をしていたが、家柄がよく、藩主から帯刀を許されていた。母は雨山14歳の時に不幸にも亡くなってしまったので、その後雨山は厳格な父に育てられ、手習いから漢書の素読に至るまで教えられたという。
 父佐平は、元来同情心の厚い人で、困窮している人を見ると助けずにはいられず、何かと世話をした。また明治維新の騒然とした世の中で家業は傾いていき、最終的には家業を廃業しなければならなくなってしまった。
 しかし雨山はそんな生活にあってもそれを苦とせず、明治13年(1880)、東宇和郡講習科を終え、その冬17歳にして公立小学校教員認定城を受けた。その翌年には、宇和島南予中学校に進む。
 当時は交通の便も悪く、また下宿もなかったので、雨山は自宅から中学校に通うために狭い法華津峠の山道五里(約20km)を毎日往復しなければならなかった。朝は午前2時に出発、夜は午後8時するという毎日にもかかわらず、雨山はそれをものともせず中学に通い続けた。これも雨山の堅忍不抜の志と、強健無比の体でなければできないことであった。
 しかし翌年の明治16年(1883)、18歳の時には学資が途絶え、わずか一年でやむを得ず中途退学しなければならなくなった。そこで雨山は松尾馬場先生に従って、南宗画(なんしゅうが)を学びながら、ともに各地を遊歴して過ごすことになった。これは仕方のないことだったが、一方では雨山の好きな画の道でもあった。
 普通ならば耐え難いこれらの不幸に見舞われつつも、どういう訳か道が開かれていき、その後の功績につながっていくというのは偶然なのだろうか。天が才能ある雨山に味方をしたということであろうか。
 明治17年(1884)六月、東宇和郡小学校六等訓導に任じられ、月俸7円を支給されることになった。雨山はその月俸を貯めて、明治18年(1885)、東京への遊学の旅に発った。
 東京遊学というと聞こえはいいが、実際には東京の生活は自給自足の苦学であった。状況翌月からは麹町区私立堀江小学校の教師となって働き、一方では本田錦吉郎先生の彰義堂画塾に通い、西洋画の修行をはじめたのである。
 その後も、いくつもの小学校の教師を転々と勤め、塾にも次々と変わって修行したが、苦境は変わらず結局第一回の遊学は終わってしまった。
 明治22年(1889)、卯之町の有志清水清十郎氏や当時衆議院議員であった牧野純蔵氏、尾見五郎先生の推挙を受けて東京美術大学に入学することができ、再度上京することになった。美術学校では彫刻家を専修し、明治25年(1892)には、学力品性ともに優秀ということで特待生になり、彫刻術研究のため奈良地方を歴遊した。この時初めて正倉院の御物を拝観し、その研究に没頭した。そして明治26年(1893)7月、雨山は優秀な成績で美術学校を卒業した。
 卒業後は美術行脚をしたり、厳島物産競技会の審査員などをしながら、専門の研究を続けていたが、明治31年(1898)、母校美術学校の助教授として教壇に立つことになった。
 雨山は常に日本の彫刻会が西洋に遅れていることを気にしていたが、このことについての意見書を、校長を通じて文部省に建白、これが受け容れられ、東京美術学校彫刻家の中に新たに塑像科が特設されることになった。この塑像科の新設は日本彫刻界に一時期を画した偉業といえよう。
 明治34年(1901)、文部省から彫刻研究のために2年間のドイツ・フランス留学を命じられた。まずフランス、次いでドイツ・イタリアと巡遊し、この間波長国研究にのみ没頭したようである。
 そして明治37年(1904)には、東京美術学校の教授に進み、塑像科を担当することになった。
 明治40年(1907)頃からは、学校の教授以外に駒込千駄木町に家塾を開き、建畠大夢、北村西望、横江嘉純、吉田久継、大西三四郎、杉本伝などの英才教育に力を入れ、慈父の眼をもって教え子の成長を楽しんだ。これは、かつて雨山が恩師から受けた愛撫の恩を想起して、その志を永久に伝えようとしたものであろう。
 明治41年(1908)八月、父佐平が郷里で遠逝した。享年73歳。少年時代に母を失った雨山にとっては、厳父であると同時に慈母であった父の死が孝心深い雨山をどれだけ悲しませただろう。雨山はあれほど好きだった酒も当分口にせず、傍らで見守るのも痛ましかったそうである。
 続いて大正4年(1915)には東京の自宅で妻ヌイ子が亡くなった。享年51歳。この時の雨山の心境を察すると痛ましい気持ちになる。
 しかしいつまでも寒風ばかりではなかった。大正7年(1918)、梶本チセを後妻として迎えることになった。チセもつぶさに辛酸をなめた人で、よく雨山の人となりと事業を理解し、協力を惜しまなかった。それだけでなく、後年雨山から酒杯を絶ち、瀕死の重病から救って65年の天寿を全うさせたことは後に皆から目睹するところであった。
 大正9年(1920)、教え子である建畠大夢、北村西望に進路を開くべく教授を勇退。その後は関西に居を移し、悠々自適、風月を友としてもっぱら画筆を寿して遊んだ。画は邦画、洋画、漢画などをみな楽しんだが、中年頃からは南宗画の気韻の高いものを喜んだ。特元人倪雲林の画風に私淑し、高雅清痩の画を作ったが、晩年にはさらに一峯老人の風を慕い、幽遠野逸、時流を遠く抜く物があった。しかし、雨山は画は自ら楽しむだけで、あえて売ることをしなかったが、その人となりと共に漸次見る人の賞賛するところとなり、ついに大正11年(1922)、大久保利武、本山松陰、村山香雪、永田盤舟らの発起のもと、雨山絵画展覧会を大阪美術倶楽部で催すことになった。それをきっかけとして雨山の名声は一気に上がり、その後雨山の画を求めるものが多くなったという。
 雨山没後、遺作が本山松陰の斡旋で昭和3年(1928)11月、久邇宮殿下の台覧に浴した。雨山門下の名誉、雨山もって瞑すべきである。
 昭和3年(1928)3月23日、兵庫県の自宅で心臓病のため永眠。享年65歳であった。
 豪放の反面とても細心で、些細な旧恩にも必ず報謝した。美術学校に入学した際、雨山は先輩に補助をしてもらったが、それを常に忘れず後に礼を厚くして返済し、その記録を家に残して子孫に伝えようとした。当たり前のことだが、軽薄になりがちな現代の子弟を戒めるには十分な逸話である。
 また、酒を愛したが悪い酒ではなく、雨山にとっては人間関係を円滑にするための潤滑剤になっていたようである。
 ものに執着することもなく、居を変え気を代えて新たな気持ちで作品に望んだ雨山。その豪放かつ繊細な性質は我々が失い掛けているもののような気がする。その辛抱強く、何事にも恐れず挑戦していく姿勢をぜひとも見習いたいものである。
 現在、宇和先哲記念館近くの雨山公園には雨山作の神武天皇立像がある。現在残る雨山の作品の中で、当時の姿をほぼ忠実に再現した数少ない像の一つである。先哲記念館と合わせて訪れてみてはいかがだろうか。
 
白井雨山略歴
元治元年 3月1日伊豫国東宇和郡鬼窪村に生まれる、保治郎と命名、四男
6年 開明小学校へ入学
12年 雨山と号す
東宇和郡講習所へ入る
13年 小学講習課卒
愛媛師範制定教員試験に合格
卯之町上甲宗平に書を学ぶ
14年 宇和島南予中学へ入学
鬼ヶ窪村河野吉三郎養子となる
16年 松尾馬城に南画を学び共に各地を遊歴(20歳)
県より初等科教員免許状を受く
17年 小学中等科の教員免許状を受く
東宇和郡新定小学校六等訓導に任、月俸7円
師範学校校長より所定の試験に合格し初等師範科卒業証書を受く
別号を真城、又晩翠主人と号す
18年 河野家より離縁、復籍
東京へ出る
19年 東京府より小学中等教員免許状を受く谷田小学校六等訓導兼校長、月俸8円
渡辺省亭に容斎派の画を学ぶ
20年 坂本女子小学校訓導
渡辺省亭画塾退
21年 9月京都に遊び望月玉泉に四条派の絵画を学ぶ(12月迄)
22年 上京、東京美術学校に入り彫刻科を専修
25年 彫刻研究のため奈良に遊ぶ
9月特待生(26年9月迄)
26年 美術学校卒、再び奈良で研究
厳島物産協議会審査員
石川県工業学校教諭(30歳)
28年 美術研究のため京都遊歴
31年 東京美術学校助教授
美術学校に塑造科新設を建議し容れられる
32年 春三島中洲翁の銅像を製す
34年 9月彫刻研究のため2ヶ年独仏両国へ留学を命じられ、11月2日出帆
37年 2月帰朝、3月教授になる
38年 故陸軍騎兵少尉長岡護全銅像
土方久元伯の像
東京彫刻工会北条時宗像で金賞
40年 学術研究のため京都大阪愛知岐阜奈良県へ出張
大正2年 宇和町(現:西予市)小学校へ乾漆製額面を寄附(50歳)  
3年 西宇和郡三島村井上森太郎二男荘平を養子とする
故橋本雅邦銅像制作
4年 故佐竹侯爵銅像制作
8月2日婦人ヌイ子死没、心臓病、寿51
6年 卯之町坪ヶ谷へ神武天皇の銅像を建立
11年 大阪で雨山絵画展
兄彦太郎没
雨山作品集刊
14年 山家素行の銅像作
晩秋夫人と寒霞渓に遊ぶ
昭和3年 3月23日午後1時55分兵庫県御影町で没
郷里白井家の墓地に眠る