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「上岡美平」という洋画家を知っている人はいるだろうか。富や名声のためではなく、ただ「純粋に作品を生みたい」という欲求のみで数多くの作品を生み、そして27歳という若さでこの世を去った夭折の洋画家である。
上岡美平(本名・巳平)は、1910(明治43)年7月10日喜多郡五十崎町(現:内子町)に上岡萬八、キクエの5人姉弟の次男として誕生した。父萬八は呉服太物店「俵屋」を営んでおり、店は大変繁盛していたため、美平たちの暮らしは比較的豊かであった。
美平は子供の頃から元気な明るい性格で、誰からも好かれる腕白坊主であったという。
当時は馬車による交通が盛んで、まちの往還には馬糞が累々と連なっていることが多かった。この馬糞を投げてふざけているので、隣家の母親にたしなめられると「うちはバカじゃけん、汚いことするんよ」とますますふざけたりもしたし、夕方遅くなっても帰ってこず、家族が心配していると、家に入るなりポケットから魚を取り出して、にっこりしたという。
1922(大正11)年愛媛県立大洲中学校(旧制)に入学し、同年開通した愛鉄(愛媛鉄道)で通学し、早朝に五十崎駅に急ぎ、夕方遅く帰宅する生活を送った。
美平は、身長173センチのスラリとしたハンサムなスポーツマンタイプで、ハーモニカとテニスに熱中していたが、中学4年の時、美平の描いた絵「秋景色」が太田政太郎美術教師に「これは凄い」と激賞され、そのことがその後絵画制作に取り憑かれるきっかけとなったようだ。
1928(昭和3)年、大洲中学校を卒業し、東京高等師範学校と第一高等学校を受験するが失敗。その後浪人生活に入った美平は、1年後への受験勉強のかたわら、絵画制作にも没頭した。
入試で上京時購入した油絵材料で、初めて油彩画に挑んだが「はじめての油絵、どうも色が出ない。絵具に使われている」と、初めての試みに、上手く描けないもどかしさを日記に記している。
そして同年10月、大洲中学展覧会に作品を出品し、美平自身まだまだ取るに足らぬ絵だと思っていたが、太田先生から「うまくなった」と言われ、思わず涙ぐんでしまったという。尊敬する恩師からの一言は、何にも優る励みであり、感激もひとしおだったのだろう。
1929(昭和4)年3月、美平は大学受験のため上京し、東京美術学校と早稲田大学を受験、4月早稲田大学高等師範部(国語漢文科)に合格する。勉学のかたわら野外写生、また展覧会の見学など希望に満ちあふれた東京での生活をスタートさせる。そして驚嘆すべき作品を見るなか、自分の特色、嗜好を照合させながら欠点を補う眼を養っていった。しかし、頭の中で理屈は分かっていても、絵筆を持った現実とのジレンマに悩まされ、時としてスランプに陥る日もあった。
そして翌年の1930(昭和5)年5月、デッサン不足を補うべく春陽会研究所の門を叩いた。そこでめきめきと力を付けた美平は、初めて公募展へ出品する。それも帝展(現在の日展)である。しかし結果は落選。「俺は決して落選を悲しまない。むしろ誇るのだ。」なんと美平は帝展落選に落胆するどころか、それをバネにして自信に満ちあふれた作品の数々を生み出していった。
ところで、後年美平が公募展への出品を積極的に行わなかったのは「純粋に作品を生みたいのだ。制作欲あるのみだ」といった美平自身の芸術に対するポリシーを貫いた行動だったと思われる。
1932(昭和7)年には、なかなか慣れないデッサンに力を入れ、伊豆大島にスケッチ旅行に出かけている。そして同年11月26日、春陽会研究所コンクールで「裸婦立像」が第一席を得る。しかし美平は、栄誉の受賞におごることもなくむしろ「俺の絵は無神経だ」と反省の弁を発している。その言葉から、自信の芸術目標を高く掲げていたことがうかがえる。
1934(昭和9)年1月に松山歩兵二十二連隊に入隊、幹部候補生となった美平は「少年像」を制作、春陽会に出品し4月入選を果たした。
翌年1月に除隊、予備役歩兵少尉に任官、4月に五十崎青年学校専任教員となったが、前年在隊中に新築された別棟2階のアトリエで絵画制作に打ち込んだ。
また、他方では、松山の河本一男、洲之内徹を中心とした青年美術集団に加盟し、長浜の池田友重とは制作を中心として、交情を深めていった。
題材は身辺にも求められ、「馬車」は豊秋橋を天神側にわたった東側を描いた物である。当時の情景がよく遺されているものと言えよう。美平は晩年まで大作を志し、大森嘉十氏一家を描いた「O氏一家」や、かなりの期間執拗に農村風景を描こうとした「収穫」がある。
1937(昭和12)年8月、当時の北支事変が中支に飛び火するとともに、美平は召集を受け、松山歩兵二十二連隊に入隊、営外居住をしていたが、9月いよいよ出征することとなった。9月16日、多くの人に見送られた美平は、何枚かのスケッチと手紙を遺し、9月27日、中華民国上海近傍羅店鎮沈家橋において戦死した。
遺された遺作は300点以上もあり、そのほとんどにサインも日付も入れられておらず、ただひたすらに描き続けられ、描き捨てられていったおびただしい作品からは、美平の絵画に掛ける情熱が感じられる。その遺作の中から「三等車」「子守」の2点がそれぞれ「遺作(一)」「遺作(二)」として春陽会に入選、当時の東京日日新聞に「遺作に薫る誉れ 春陽会に二点も入選」の見出しで、三面トップ記事として報じている。
職業画家ではなく、一地方画家として五十崎町(現:内子町)を愛し、まるで自分の人生を知っていたかのようにひたすらに描き続けた上岡美平。その作品は、我々が忘れかけているものを思い出させてくれるのではないだろうか。
現在、上岡美平の作品は五十崎町凧博物館内にコーナーが設けられ、展示されている。
| 上岡美平略歴 |
| 1910(明治43)年 |
7月10日愛媛県喜多郡五十崎町大字古田甲1205番地(現:愛媛県喜多郡内子町五十崎甲1205番地)に上岡萬八、キクエの次男として出生。生家は商家。 |
| 1922(大正11)年 |
愛媛県立大洲中学校入学。4年生時、絵「秋景色」を太田美術教師に「これは凄い」と激賞され、以後絵画制作への傾斜を深める。 |
| 1928(昭和3)年 |
3月大洲中学校卒業。6月補修科通学。10月五十崎小学校代用教員となる。 |
| 1929(昭和4)年 |
4月早稲田大学高等師範部(国語漢文科)に入学。 |
| 1930(昭和5)年 |
5月春陽会研究所にて木村荘八、足立源一郎らの指導を受ける。 |
| 1932(昭和7)年 |
11月春陽会研究所コンクールにおいて「裸婦立像」が一位入選。 |
| 1933(昭和8)年 |
3月早稲田大学高等師範部卒業。
4月「籐椅子の少年」が春陽会に初入選。郷里にあって絵画制作に励む。 |
| 1934(昭和9)年 |
1月松山歩兵第二十二連隊に入隊、幹部候補生となる。 |
| 1935(昭和10)年 |
1月歩兵少尉(予備役)任官。4月五十崎青年学校専任教員になるとともに、松山の河本一男、洲之内徹を中心とする青年美術家集団に加盟。 |
| 1937(昭和12)年 |
8月松山歩兵第二十二連隊応召入隊、9月16日出動、9月27日中華民国上海近傍羅店鎮沈家橋において戦死。(享年27歳)
10月31日〜11月2日松山商工会議所において「青年美術家集団第2回秋季展・上岡巳平遺作展」が開催。洲之内徹に送り届けられていた戦地スケッチ9葉も展示された。 |
| 1938(昭和13)年 |
4月春陽会研究所時代の画友高木勇次の奔走により「三等車」と「子守」の二点が遺作として春陽会に入選。 |
| 1941(昭和16)年 |
8月16、17日天神小学校で遺作展 |
| 1987(昭和62)年 |
6月2日〜8月25日大洲市立博物館で遺作展 |
| 1989(平成元)年 |
7月29日〜9月17日愛媛県立美術館分館で遺作展 |
| 1998(平成10)年 |
7月28日〜8月9日おおず赤煉瓦館で遺作展 |
| 2000(平成12)年 |
五十崎凧博物館内に上岡美平コーナー開設 |
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