歴史上の人物

二宮 忠八翁
(八幡浜市)
風に乗り、空を翔たい。
古からの浪漫に想いを馳せた日本人がいた・・。
   二宮忠八は、1866年6月9日八幡浜浦矢野町44番地に生まれる。忠八は海産物を扱う富裕な商家の子として幼い日を送ったが、幸せな日々は長くは続かない。6歳の頃家業が倒産し、借金の返済に奔走した父は、忠八が12歳を迎える前にこの世を去った。
 忠八は、小学校卒業後進学を希望したが、その夢もかなわなかった。まだ13歳というのに彼は、生活費を得るため凧を作って売っていた。

 21歳の時軍隊に入隊し丸亀に移った忠八は、それから2年先に彼の人生を変える出来事に遭遇する。
 1889年11月9日香川県十郷村にて、忠八が昼食をとっている時、目の前を飛ぶカラスに興味をもった。
 カラスは好奇心が旺盛な鳥で、光るものを集める習性がある。巣の中に宝石が見つかったという話も聞く。光る物を拾い上げようと飛び降りる姿。彼はそこに自分の姿を見ていたのかも知れない。


 その日から彼は、空を飛ぶことの研究に没頭する。研究の対象は、鳥や昆虫ばかりでなく。トビウオや天女伝説にまで及んだ。カラスから飛行原理をつかんでから、わずか1年でゴム動力の模型飛行器を完成。  1891年4月29日、黄昏の丸亀練兵場で飛行実験が行われた。
 忠八は辺りを見渡し誰もいないことを確かめると、胸の鼓動が高鳴るのを押さえ模型飛行器をそっと取り出した。それはカラスの形をしたもので、ゴム動力の4枚の羽のプロペラと3つの車輪を持ち合わせていた。 彼がゴムを一杯に張ったプロペラから手を放すと、機体は3メートルほど滑走し、地面から浮かび上がった。


 鳥型飛行器の成功は、彼の抱いていた「人間が鳥の様に飛ぶことが出来るかも知れない。」といった概念を確信に変えた。更に2年間研究を積み重ね、1893年には人を乗せて飛ぶことが出来る両翼の長さが2メートルの玉虫型飛行器が完成。残る問題は飛行するための動力だけとなった。
 1894年、日清戦争が勃発。忠八も従軍する。従軍中飛行機の必要性を痛感した彼は、飛行機製造の上申書を軍に3度にわたって提出したが、ことごとく却下された。
 失望した彼は1898年軍を辞め、資力を蓄えてから独力で飛行機を完成させるため、大阪の大日本製薬株式会社に入社。商才にたけアイデアマンであった忠八は、10年足らずで大阪を代表する実業家の一人となる。こうして資金も出来た1908年、忠八は京都府八幡町に作業所を構え、飛行機の制作を再開した。
 飛行機の枠組みも出来上がり動力としてオートバイ用のエンジンを取り寄せるだけとなっていた1909年の朝の事である。
 新聞にライト兄弟の有人飛行実験の成功の記事が出てたのです。彼は目の前が真っ暗になった。少年の頃抱いていた自分の輝ける未来。それは、「世界で最初に自分の作った飛行器が空を飛ぶ」ことだ。
 人は大切なものを失ったときに涙する。彼は自らの手で完成間近の飛行器を壊し、以後二度と飛行器を作ることはなかった。晩年の忠八は、彼の夢をのせた飛行機による事故で命を落とした人の霊を供養するため飛行神社を建立し神主となった。
 1936年4月8日、忠八は70年の生涯に幕を閉じた。